徳川幕府歴代将軍

徳川家康が慶長八年(1603年)朝廷より征夷大将軍に任命され、江戸幕府が開府。慶応三年(1867年)第十五代徳川慶喜が、朝廷に大政奉還する迄の二百有余年の間、代々徳川家によって将軍は世襲されます。

三つ葉葵の紋

初代将軍 徳川家康

天文十一年(1542年)、三河岡崎城主 松平広忠(十七歳)の長男として誕生。母は刈谷城主 水野忠政の娘 於大(十五歳)。六歳で今川義元の元に人質。永禄三年(1560年)今川義元が桶狭間にて織田信長に討たれた後、松平元康は岡崎城に帰城。永禄五年(1562年)、織田信長と松平元康は清洲で盟約を結ぶ。朝廷に「徳川」への改姓を願い出て勅許を得て、「徳川家康」のなる。正室は今川義元の姪 築山殿であったが織田信長の命令で殺害、長男 信康を切腹させた。二番目の正室は豊臣秀吉の妹 旭姫、そして側室が秀忠の生母お愛を含めて十数名いたとされる。

慶長八年(1603年)二月十二日〜慶長十年(1605年)四月十六日 在位期間

二代将軍 徳川秀忠

天正七年(1579年)、徳川家康の三男として誕生。母は戸塚忠春の娘お愛(西郷局)。幼名「竹千代」。慶長十年(1605年)、二年で将軍職を退いた家康の後を継ぎ征夷大将軍に任命される。正室は織田信長の姪 お江与、側室は神尾栄加の娘お静で、その息子は会津藩祖となる保科正之。

慶長十年(1605年)四月十六日〜元和九年(1623年)七月二十七日

三代将軍 徳川家光

慶長九年(1604年)、二代将軍徳川秀忠の長男として誕生。母は織田信長の妹 お市の方の娘 お江与。幼名「竹千代」。二十歳の時、父秀忠の跡を継ぎ征夷大将軍となる。正室は摂関家 鷹司信房の息女 鷹司孝子。側室は「お楽」「お万」「お振」「お夏」「お玉」「お里佐」「おまさ」。

元和九年(1623年)七月二十七日〜慶安四年(1651年)四月二十日

四代将軍 徳川家綱

寛永十八年(1641年)、三代将軍家光の長男として誕生。母は側室お楽。十一歳で将軍職を継ぐこととなり、将軍家補佐役には家光の実弟である保科正之が就く。正室は伏見宮貞清親王の息女 浅宮顕子。

慶安四年(1651年)八月十八日〜延宝八年(1680年)五月八日

五代将軍 徳川綱吉

正保三年(1646年)、三代将軍家光の三男として誕生。母はお玉。三十四歳の時に兄である四代将軍家綱の跡を継ぎ五代将軍となる。正室は鷹司信子。

延宝八年(1680年)八月二十三日〜宝永六年(1709年)一月十日

六代将軍 徳川家宣

寛文二年(1662年)、三代将軍家光の二男綱重の長男として誕生。母はお保良の方。四十八歳で将軍職を継ぐ。正室は近衛関白基煕の息女 近衛煕子(ひろこ)。側室は「お古牟」「お須免」「お喜世」「いつき」。

宝永六年(1709年)五月一日〜正徳二年(1712年)十月十四日

七代将軍 徳川家継

宝永六年(1709年)、家宣の嫡男として誕生。母は側室お喜世。五歳で将軍となる。

正徳三年(1713年)四月二日〜享保元年(1716年)四月三十日

八代将軍 徳川吉宗

貞享元年(1684年)、二代目紀州藩主 徳川光貞の三男として誕生。母はおゆりの方。三代目藩主であった綱教、四代目頼職の跡を継ぎ二十二歳で五代目紀州藩主となった。そして享保元年(1716年)家継のあと三十二歳で徳川八代将軍となる。正室は伏見宮貞致親王の息女 真宮理子。側室は「お須磨」「お古牟」「お梅」「お久免」。

享保元年(1716年)八月十三日〜延享二年(1745年)九月二十五日

九代将軍 徳川家重

正徳元年(1711年)、徳川吉宗の長男として誕生。母は和歌山藩士大久保忠直の娘お須磨の方。享保元年、父吉宗が将軍となり享保十年(1726年)江戸城西の丸に入る。延享二年(1745年)、吉宗が九月に将軍職を退き隠居、十一月に征夷大将軍となる。正室は吉宗の正室であった真宮理子の姪 比宮増子。側室は「お幸」「お逸」。

延享二年(1745年)十一月二日〜宝暦十年(1760年)五月十三日

十代将軍 徳川家治

元文二年(1737年)、九代将軍家重の長男として誕生。母は中納言梅渓通条の息女お幸。幼名「竹千代」。正室は閑院宮直仁親王の息女 五十宮倫子。側室は「お知保」「お品」。

宝暦十年(1760年)九月二日〜天明六年(1786年)九月八日

十一代将軍 徳川家斉

安永二年(1773年)、江戸城内一橋家上屋敷にて二代目一橋家当主徳川治済の長男として誕生。母は側室おとみの方。十代将軍家治の嫡男家基が夭折したため、家治の養子として天明元年、西の丸に入る。天明七年(1787年)四月、十四歳で将軍となる。正室は薩摩藩主 島津重豪の娘で近衛右大臣経煕の養女島津寔子。側室は「お楽」他多数。

天明七年(1787年)四月十五日〜天保八年(1837年)四月二日

十二代将軍 徳川家慶

寛政五年(1793年)、十一代将軍家斉の二男として誕生。母は押田敏勝の娘お楽の方。天保八年四月、家斉が将軍職を退き隠居、九月に四十五歳で十二代将軍となる。正室は有栖川宮織仁の息女 楽宮喬子。側室は「お美津」「お琴」他。

天保八年(1837年)九月二日〜嘉永六年(1853年)六月二十二日

十三代将軍 徳川家定

文政七年(1824年)、十二代家慶の四男として誕生。母は跡部正寧の娘お美津の方。嘉永六年(1853年)、折しもペリー来航の時期に家慶の跡を継ぎ二十九歳で十三代将軍となる。正室は三名、鷹司政煕の息女 鷹司任子、二人目の正室となったのは一条忠良の息女 一条秀子、三人目の正室となったのが島津忠剛の娘で薩摩藩主島津斉彬の養女 敬子、そして敬子は将軍家に輿入れするために近衛家の養女となり「篤子(篤姫)」に改名、家定崩御後「天璋院」。側室は「お志賀」。

嘉永六年(1853年)十月二十三日〜安政五年(1858年)七月四日

十四代将軍 徳川家茂

弘化三年(1846年)、十一代将軍家斉の六男である十一代和歌山藩主 徳川斉順の長男として誕生。母は藩士 松平六郎右衛門晋の娘おみせの方。弘化四年(1847年)十二代和歌山藩主斉疆の養子となり嘉永二年(1849年)跡を継ぎ十三代和歌山藩主となる。安政五年六月(1858年)、将軍家の世継ぎとして江戸城西の丸に入り、安政五年七月、家定の跡を継ぎ十四代将軍となる。正室は皇女和宮親子内親王。

安政五年(1858年)十二月一日〜慶応二年(1866年)八月十一日

十五代将軍 徳川慶喜

天保八年(1837年)、九代水戸藩主 徳川斉昭の七男として誕生。母は有栖川宮織仁王女 吉子。慶応三年(1867年)十月、朝廷に政権を返上を請い、同年十二月「王政復古の大号令」が宣言され、十五代を以て徳川将軍家の終焉となる。

慶応二年(1866年)十二月五日〜慶応三年(1867年)十二月九日