江戸時代の歴史文化を辿る年表、初代徳川将軍の家康に始まり
秀忠、家光、家綱、綱吉将軍治世下の江戸時代歴史年表
年号 | 西暦 | 江戸時代年表歴史事項 |
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慶長 八年 | 1603 | 徳川家康、征夷大将軍に補任。【江戸幕府開府】 秀忠の長女千姫、豊臣秀頼のもとに輿入れ。 広橋兼勝、武家伝奏に任命。外様大名、江戸参勤。 京都に十人組設置。長崎奉行設置、小笠原一菴を任命。 伊勢山田奉行設置。徳川義直を甲斐、頼宣を水戸に封ずる。 城下町建設・新田開発・治水工事着手。日本橋が架かる。 |
慶長 九年 | 1604 | 黒田如水、五十九歳にて没する。 【糸割符制度】制定。諸街道に一里塚を築く。南蛮渡航の朱印状が諸大名、商人に交付。 |
年号 | 西暦 | 江戸時代年表歴史事項 |
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慶長 十年 | 1605 | 家康、将軍職を退く。徳川秀忠、征夷大将軍に補任。 書院番設置。書院番頭に水野忠清を任命。 |
慶長十一年 | 1606 | 慶長通宝鋳造 |
慶長十二年 | 1607 | 徳川家康、諸大名に修築させた駿府城に移る。 徳川義直を尾張に封ずる。駿府城火災。 |
慶長十三年 | 1608 | 駿府城再建。 |
慶長十四年 | 1609 | 豊臣秀頼、家康の進言により方広寺大仏伝の再興に着手。 オランダ平戸商館設置。徳川頼宣を駿河に報ずる。 |
慶長十六年 | 1611 | 二条城にて家康、秀頼と会見。 南光坊天海、僧正となる。 |
慶長十七年 | 1612 | 幕府によるキリシタン禁止命令【禁教令】 |
慶長十八年 | 1613 | 公家諸法度の制定。伊達政宗の遣欧使節、陸奥月浦より出航。 |
慶長十九年 | 1614 | 十月 徳川家康、大坂征討命令【大坂冬の陣】。十二月 講話。 |
慶長二十年 | 1615 07/12 | 四月 家康、大坂征討【大坂夏の陣】。五月 大坂城落城。
松平忠明を大坂に封ずる。 一国一城制布告。 |
元和 元年 | 1615 07/13 | 武家諸法度・禁中並公家諸法度・諸宗諸本山諸法度制定。 |
元和 二年 | 1616 | 三月 徳川家康、太政大臣に任命される。 四月 七十五歳にて没。久能山に埋葬。 |
元和 三年 | 1617 | 吉原遊郭開設許可。狩野探幽、幕府御用絵師となる。 徳川家康、東照大権現の神号を勅賜される。日光山に改葬。 |
元和 四年 | 1618 | 江戸城大奥に壁書が出される。撰銭・金銭売買禁止令。 |
元和 五年 | 1619 | 秀忠上京。伏見城を廃して城代を大坂に移す。
大坂町奉行所設置。 【菱垣廻船】大坂〜江戸廻漕。 |
元和 六年 | 1620 | 徳川秀忠の五女和子、入内。遣欧使節 支倉常長、帰国。 ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)、五十七歳にて没する。 |
元和 七年 | 1621 | 徳川秀忠、シャム国史と引見。 外国船便乗渡航・武器輸出禁止。 |
元和 八年 | 1622 | 京都市中諸法度制定。 |
年号 | 西暦 | 江戸時代年表歴史事項 |
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元和 九年 | 1623 | 秀忠、将軍職を退く。徳川家光、征夷大将軍に補任される。 黒田長政没、享年五十六歳。 |
元和 十年 | 1624 02/29 | 中村勘三郎、猿若座を興す。 |
寛永 元年 | 1624 02/30 | 徳川忠長、駿河城主となる。徳川秀忠、江戸城西の丸に移る。 |
寛永 二年 | 1625 | 天台宗東叡山寛永寺、上野忍岡に創建。人身売買・一季奉公法度。 毛利輝元没、享年七十三歳。 |
寛永 三年 | 1626 | 秀忠、家光入京。二条城行幸。東照宮建立。 仙台藩、塩専売制開始。 |
寛永 四年 | 1627 | 諸国金銀奉行設置し内藤重次を任命。 「惺窩文集」林羅山。 |
寛永 五年 | 1628 | 老中井上政就、江戸城西の丸にて目付豊島信満に斬殺され、信満は切腹。 |
寛永 六年 | 1629 | 辻斬り防止策として辻番所を設置。武家諸法度の改定。 「春鑑抄」林羅山。 |
寛永 七年 | 1630 | キリシタン、ルソンに追放。キリシタン書籍輸入禁止。 藤堂高虎没、享年七十五歳。 |
寛永 八年 | 1631 | 三月 浅間山噴火。諸関通行取締強化。 |
寛永 九年 | 1632 | 一月二十四日 徳川秀忠、五十四歳にて没する。十月 忠長改易。 柳生宗矩、惣目付就任。 |
寛永 十年 | 1633 | 六人衆〜若年寄設置。十二月 徳川忠長、自刃、享年二十八歳。 |
寛永十一年 | 1634 | 老中・若年寄の職掌規定。長崎出島着工。 譜代大名妻子、江戸に移る。 |
寛永十二年 | 1635 | 【鎖国令】長崎以外の外国貿易、海外渡航禁止。 参勤交代制度の制定。寺社奉行設置。 |
寛永十三年 | 1636 | 江戸と近江坂本に銭座創設、寛永通宝鋳造。長崎出島完成。 日光東照社大造替。伊達政宗、七十歳にて没する。 |
寛永十四年 | 1637 | 十月 島原天草農民・キリシタン一揆。十二月 原城籠城【島原の乱】。 本阿弥光悦、八十一歳にて没する。 |
寛永十五年 | 1638 | 島原の乱鎮圧。キリスト教禁止。大老職設置。 江戸城本丸火災。 |
寛永十六年 | 1639 | ポルトガル船の来航禁止。 |
寛永十七年 | 1640 | 江戸城本丸再建。 |
寛永十八年 | 1641 | オランダ平戸商館、長崎出島に移転。 |
寛永十九年 | 1642 | 人身売買禁止令。【寛永の大飢饉】 |
寛永二十年 | 1643 | 【田畑永代売買禁令】制定。保科正之、会津に移封(国替え)。 春日局没、享年六十五歳。天海僧正没、享年百八歳。 |
寛永二一年 | 1644 12/15 | 諸国代官に農民扶助・年貢収納・キリスト教禁制布告。 |
正保 元年 | 1644 12/16 | 諸国郷村高帳・国郡諸城図作製。 |
正保 二年 | 1645 | 日光東照社は朝廷より宮号が宣下され日光東照宮となる。 宮本武蔵没、享年六十二歳。細川忠興没、享年八十三歳。 |
正保 三年 | 1646 | 朝廷、日光奉幣使を派遣。柳生宗矩、七十六歳にて没する。 |
正保 四年 | 1647 | |
正保 五年 | 1648 2/14 | |
慶安 元年 | 1648 2/15 | 江戸市中諸法度制定。町人家督相続制。 |
慶安 二年 | 1649 | 大名・旗本に【倹約令】発布。農民【慶安御触書】公布。 |
慶安 三年 | 1650 | |
慶安 四年 | 1651 | 徳川家光、四十八歳にて没する。 |
年号 | 西暦 | 江戸時代年表歴史事項 |
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慶安 四年 | 1651 | 【慶安の乱〜慶安事件】由比正雪らによる幕府転覆計画発覚。 松平和泉守、慶安の乱を鎮圧。由比正雪、駿府にて自決。丸橋忠弥、捕縛。 |
徳川家綱、将軍宣下を慣例に反し江戸城にて受ける。 保科正之、幼君家綱の補佐役・後見人。酒井忠勝、大老職に就く。 阿部忠秋・松平信綱・松平乗寿、老中職に就く。 |
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承応 元年 | 1652 9/18 | |
承応 二年 | 1653 | 玉川上水敷設、許可。 |
承応 三年 | 1654 | 玉川上水完成。 |
明暦 元年 | 1655 4/13 | 糸割符制廃止。 |
明暦 二年 | 1656 | |
明暦 三年 | 1657 | 【明暦大火】江戸大火、振袖事件。吉原遊郭、浅草中千束町に移転。 明暦の大火による被災者に銀一万貫目を支給。「大日本史」徳川光圀 |
万治 元年 | 1658 7/23 | 幕府、前年の明暦の大火を教訓として江戸市中に定火消しを設置する |
万治 二年 | 1659 | 江戸城本丸、造営竣工。江戸両国橋、架橋。 |
万治 三年 | 1660 | |
寛文 元年 | 1661 4/25 | 京都大火。徳川綱吉を館林に封ずる。徳川綱重を甲府に封ずる。 |
寛文 二年 | 1662 | 松平信綱、六十七歳にて没する。酒井忠勝、七十六歳にて没する。 |
寛文 三年 | 1663 | 武家諸法度の改定、武家社会において美徳とされていた殉死を禁止。 |
寛文 四年 | 1664 | 【寛文印知】諸大名に対して領知判物・領知朱印状・領知目録授与。 |
寛文 五年 | 1665 | 黒田長興、五十六歳にて没する。 |
寛文 六年 | 1666 | 千姫、七十歳にて没する。 |
寛文 七年 | 1667 | 堕胎業を禁ずる。 |
寛文 八年 | 1668 | 京都町奉行所設置。 |
寛文 九年 | 1669 | 【寛文蝦夷の乱〜シャクシャインの戦い】松前藩に対してアイヌ民族が蜂起。 |
寛文 十年 | 1670 | 箱根用水完成。 |
寛文十一年 | 1671 | 【東廻航路】河村瑞賢、房総半島迂回の航路を開く。 |
寛文十二年 | 1672 | 【樽廻船】廻漕。【西廻航路】河村瑞賢、大坂下関経由の航路を開く。 奉公人出替日を三月五日に制定。保科正之、六十二歳にて没する |
延宝 元年 | 1673 9/21 | 【城米廻船条例】発布。【分地制限令】名主二十石、百姓十石以上。 三井高利、江戸日本橋に越後屋呉服店を開業する。 |
延宝 二年 | 1674 | 狩野探幽、七十三歳にて没する。 |
延宝 三年 | 1675 | 阿部忠秋、七十四歳にて没する。 |
延宝 四年 | 1676 | |
延宝 五年 | 1677 | 「江戸雀」菱川師宣。 |
延宝 六年 | 1678 | 東福門院和子(徳川和子)、七十二歳にて没する。徳川綱重、三十五歳にて没する。 |
延宝 七年 | 1679 | |
延宝 八年 | 1680 | 五月 四代将軍 徳川家綱、末弟の館林藩主 徳川綱吉を嗣子とし、四十歳にて没する。 堀田正信、五十歳にて殉死。 |
年号 | 西暦 | 江戸時代年表歴史事項 |
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延宝 八年 | 1680 | 八月 徳川綱吉、征夷大将軍に補任される。 |
天和 元年 | 1681 9/29 | 【護国寺建立】綱吉の生母 桂昌院が開基、僧 亮賢が開山。 酒井忠清、五十八歳にて没する。 |
天和 二年 | 1682 | 「好色一代男」井原西鶴。 十二月 江戸大火。 |
天和 三年 | 1683 | 「八百屋お七事件」。八百屋お七、火付けにより火刑に処せられる。 |
貞享 元年 | 1684 2/21 | 貞観三年(861年)より使用の宣明暦を廃止、 大統暦を使用するが半年後に廃止し貞享暦を採用。 暦学者 渋川春海、初代幕府天文方に就任 若年寄 稲葉正休、勝手掛老中 堀田正俊を殿中にて刺殺。 |
貞享 二年 | 1685 | 「野ざらし紀行」松尾芭蕉。住吉具慶、幕府御用絵師となる。 |
貞享 三年 | 1686 | 江戸大伝馬町の木綿問屋が従来の四軒に加え、 その問屋の下にあった仲買が一斉に問屋に昇格、木綿問屋街を形成。 「好色五人女」「好色一代女」井原西鶴。「出世景清」近松門左衛門。 |
貞享 四年 | 1687 | 【生類憐みの令】発布。 |
元禄 元年 | 1688 9/30 | 徳川綱吉、堀田正俊 殿中刺殺事件を機に 老中・若年寄との取次役に側用人を置くこととし、柳沢吉保を任命。 長崎に唐人屋敷を設置。 |
元禄 二年 | 1689 | 俳人 松尾芭蕉、「奥の細道」に旅立つ。 |
元禄 三年 | 1690 | ドイツ人医師ケンペル、長崎出島商館に赴任。 徳川光圀、致仕(隠居)、養嗣子の綱條が第三代水戸藩主となる。 |
元禄 四年 | 1691 | 「猿蓑」向井去来・野沢凡兆。 |
元禄 五年 | 1692 | 江戸本石町に総代会所を設置、三名の質屋総代を任命。 |
元禄 六年 | 1693 | 井原西鶴、五十二歳にて没する。 |
元禄 七年 | 1694 | 松尾芭蕉、「奥の細道」を完成、五十一歳にて没する。 江戸十組問屋成立。 |
元禄 十年 | 1697 | 【元禄の地方直し】 五百俵以上の蔵米取りの旗本の蔵米支給を廃止し、地方知行を与えることとする。 |
元禄十二年 | 1699 | 京では、近松門左衛門作の歌舞伎「傾城仏の原」を初代坂田藤十郎が演じ大評判となる。 |
元禄十三年 | 1700 | 徳川光圀、七十三歳にて没する。 |
赤穂浪士四十七士討ち入り事件 |
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元禄十四年 | 1701 | 三月十四日 江戸城に勅使を迎える準備の中、 赤穂城主 浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)、 江戸城本丸御殿大廊下 (松の廊下)にて、高家 吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなか)を斬る。 浅野長矩、即日切腹。赤穂浅野家改易。 |
元禄十五年 | 1702 | 十二月十五日未明 大石内蔵助を筆頭とした元赤穂藩士四十七士らが、吉良邸を襲撃し吉良上野介義央を討つ。 |
元禄十六年 | 1703 | 二月四日 大石内蔵助以下、切腹。主 浅野内匠頭が埋葬されている泉岳寺に葬られる。 この討ち入り事件に民衆は感嘆し、 大石内蔵助ら四十七士は「義士」として後世まで語り継がれることとなる。 |
人形浄瑠璃の題目【忠臣蔵】 |
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五月 近松門左衛門作の人形浄瑠璃「曾根崎心中」、大坂の竹本座にて初演。 | ||
宝永 元年 | 1704 03/13 | 一月 浅間山噴火 十二月 三代将軍 徳川家光の二男 綱重の長男 甲府城主 徳川綱豊、 五代将軍綱吉の養子となる。徳川家宣と改名。 |
宝永 二年 | 1705 | お蔭参りの流行。 |
宝永 三年 | 1706 | 六月 近松門左衛門作の人形浄瑠璃「碁盤太平記」、大坂の竹本座にて初演。 |
宝永 四年 | 1707 | 十一月 富士山大噴火。宝永山誕生。 |
宝永 五年 | 1708 | 全国に麻疹が流行。 |
宝永 六年 | 1709 | 一月十日 五代将軍 徳川綱吉、六十四歳にて没する。 |
年号 | 西暦 | 江戸時代年表歴史事項 |
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宝永 六年 | 1709 | 徳川家宣、征夷大将軍に補任。 側用人 新井白石、「生類憐れみの令」を廃止する。【正徳の治】 |
正徳 元年 | 1711 04/25 | 四宝銀の鋳造。翌年中止。 |
正徳 二年 | 1712 | 新井白石、勘定奉行 荻原重秀を解任。 十月 六代将軍徳川家宣、五十一歳にて没する。 |
正徳 三年 | 1713 | 四月 徳川家継、四歳で七代将軍に就任。 |
大奥絵島事件 |
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正徳 四年 | 1714 | 家継の生母 月光院に仕える大奥大年寄 絵島が法会代参りの帰途、百三十人の供を従え、 山村座にて芝居見物に繰り出し、人気役者の生島らを招いた宴に興じ帰城の刻限に遅れる。 月光院と対立していた家宣の正室 天英院らは、この絵島事件を攻撃し、絵島は遠流、 山村座は廃座となる。 |
江戸時代年表「八代将軍徳川吉宗〜享保年間」の年表
■江戸時代徳川吉宗(享保年間)年表■
江戸時代末期の幕末年表は新撰組活劇に掲載
■幕末新撰組歴史年表■
江戸時代以前の戦国時代の歴史を記述した年表は下記サイトに掲載
■戦国時代歴史年表■