江戸時代歴史年表〜八代将軍徳川吉宗

江戸時代、享保年間の歴史年表。八代将軍徳川吉宗治世下の江戸時代歴史年表と徳川吉宗の経歴。

徳川家の三ツ葉葵の御紋

【徳川吉宗の経歴】

徳川吉宗、貞享元年(1684年)十月、紀州藩主 徳川光貞の四男として誕生、幼名「源六」、元禄七年(1694年)「新之助」と改名。元禄七年(1696年)「頼方」と改名。元禄十年(1697年)、領地として越前国丹生郡三万石を受ける。元禄十二年(1699年)七月に元服。宝永二年(1705年)五月に三代目紀州藩主 徳川綱教(長兄)没、宝永三年(1706年)九月に四代目紀州藩主 徳川頼職(三男)没、光貞には次男(次郎吉)がいたが、元服前に没、ゆえに四男であったが、頼方は宝永三年(1706年)十月二日、二十二歳の若さで第五代紀州藩主となり、十二月に将軍徳川綱吉より「吉」の名を与えられ、「徳川吉宗」と改名する。

【江戸時代歴史年表】

年号西暦江戸時代歴史事項
享保 元年171605第五代紀伊藩主 徳川吉宗、将軍職を嗣ぐ。
【享保の改革】
徳川吉宗は、七代将軍徳川家継の側用人であった
「正徳の治」間部詮房・新井白石を罷免。
「側用人」の廃止。将軍と老中、奉行との間を取り次ぐ「御用取次職」を設置。
08十三日、徳川吉宗、将軍宣下の令を受け、徳川八代将軍に就任。
09徳川吉宗、5代将軍徳川綱吉が発令した「生類憐れみの令」より停止となっていた
「鷹狩り〜鷹場」を復活させる。
享保 二年171702徳川吉宗、大岡越前守忠相を江戸町奉行に任命。
享保 三年171811町火消制度を定める。
お陰参りが流行する。
享保 四年171911【相対済まし令】
享保 五年172008大岡越前、「いろは四十七組」の町火消組合を創設。
火除け地(延焼防止のための空き地)、火の見櫓などの設置も命じる。
享保 六年172108幕府、評定所門前に「目安箱」を設置。
将軍の面前で鍵が開けられ、将軍自らが封を切って「訴え」を読む仕組みであった。
享保 七年172212幕府、小石川薬園(現在は東京大学附属小石川植物園)内に「小石川養生所」を設立。
享保 八年172306【足高の制】幕府は、役職ごとに禄高の基準高を定める。
役職に任命された者の禄高が役職の基準高に達してない場合、
役職に就いている在職期間に限り不足分が加算される。
享保 九年172403柳沢吉里(徳川綱吉の側用人であった柳沢吉保の長男〜綱吉の御落胤説有り)、
甲府より大和郡山へ移封。
11人形浄瑠璃作家 近松門左衛門、七十二歳にて没。
享保 十年172510享保大判鋳造、元禄大判の通用中止。
11大坂に御為替米会所を設置。
享保十一年172608新田検地条目の制定。
享保十二年172709京都及び大坂町奉行所門前に目安箱設置。
享保十三年172802寛永通宝鋳造を再開。
12大坂米会所の停止。
享保十四年172904【天一坊事件】
「吉宗の御落胤」と騙る修験者が、金品を搾取していたとして捕縛され、獄門となる。
享保十五年173001江戸町火消し「いろは組」を十組に編成。